クリニック・ネオ  Klinik Neo

論考

ブログ開設に当たって 令和8年6月1日

 日頃の診察では、私が依拠する考え方について、詳細に解説することが難しいので、ここに紹介していきたい。

 私が敬愛するオックスフォードの学者二人がいて、コロナ禍の最中、彼らの発するsubstackを読んだことがきっかけだ。彼らはTom Jeffersonと Carl HeneghanでオックスフォードのCEBM(Centre for Evidence-Based Medicine )の助教授と教授。エビデンスという、コロナ以来濫用され尽くした業界用語だが、彼らはそのプロ中のプロである。

 で、毎度彼らの論考の最後には

This post was written by two old geezers who are nearing the end of the discovery road on F words and politics.とあって、これがとても気に入っている。

「この投稿は、”Fで始まる言葉と政治についての探求の旅も終盤に差しかかった、二人の年寄り爺さんによって書かれた。」

 そこで私も絶滅危惧種の精神科医として思うところを記していきたい。

 当ホームページの挨拶のページにある、推薦映画と図書の中、筆頭にOrdinary People 普通の人々を挙げた。ロバート・レッドフォード処女監督のこの作品について思うところを述べていきたい。

 アメリカ中産階級の普通の家庭を淡々と描いている作品。そこには派手なシーンはひとつもない。しかし、家族の食卓やリビングの空気だけで観客を息苦しくさせる。

 主人公はコンラッドで、彼はうつ病として精神病院入院の経験があり、そこで電気ショック療法を受けていたらしい。腕にはリストカットの跡が幾筋も見える。重症のうつ病患者として治療者側は見ていた。同級生の一人は精神科に対しての偏見を持って彼に接する。受け入れる仲間もいるが、彼は心を開けない。病院で一緒だった女子は、互いに分かり合えていると思っていたが、自殺する。彼女も彼もTrue Selfの叫びに耳が貸せないぐらいFalse Selfが自分を取り仕切っていた。仲間に対しても強がった自分を見せていた。こうした配置の中、コンラッドがメタモルフォーゼを起こすプロセスを主軸として描かれている。彼が女子高生に惹かれるシーンが、パッフェルベルのカノンとともに流れる。これが彼を希望へ繋ぐ兆しとして描かれている。

 ヨット事故で亡くなった彼が敬愛する兄。長男を亡くし、喪失に耐えられない人間として母親ベスが描かれている。コンラッドもこの家族の力学の中では、兄の喪失を悲しむより前に、自分が生き残ってしまった罪悪感を生きるほかなくなっていた。

 彼女は、最後に家を出る。そして父とコンラッド二人の生活が始まるところで終わる。

 コンラッドは、治療者との対話を通じて少しずつ自分の物語を語り始める。一方で家族は自分たちの物語を語れない。特にベスは自分を語れない。悲しみを言葉にできない。彼女が語ることができなければできないほど家族が壊れていく。ベスは変われなかった、愛せなかった、だから出て行った、という解釈も成り立つし一般的だろう。

 しかし、ベスは一貫して感情の欠如した人ではない。むしろ逆だ。感情が強すぎて触れられない。だから統制する。だから秩序を作る。だから完璧な家族を維持しようとする。彼女自身がFalse Self を生きていると言ってよかろう。良い妻、良い母、良い家庭、良い人生を維持することが、彼女のほとんど存在理由になっている。だから長男の死そのものよりも、その死によって自分が築いてきた世界が崩壊したことに耐えられない。終盤になると、彼女は少しずつ気づき始める、問題はコンラッドではなかった。問題は、自分がコンラッドを見ていなかったことだった。ベスは意図的に傷つけたわけではない。しかし、彼女が守ろうとした世界そのものが、コンラッドを窒息させていた。彼女は数年間、あるいは十数年間、息子を見ていなかったことになる。更に夫を見ていなかったことになる。自分が愛だと思っていたものが、相手には圧力として働いていたことになる。これは非常に重い認識だ。そして彼女はそれに気付いてしまった、謝罪なんかでは済まない、だから出て行かざるを得なかった。罪悪感が深いほど、かえって近づけなくなる。彼女は敗北したのではなく、初めて、人生で初めて現実を見たのだろう。再生の始まりだ。

True Self / False Self は、 Donald Winnicott が作った言葉。

ウィニコットにとって False Self は本来、周囲に適応するための人格、社会的仮面、生存戦略、防衛構造である。つまり「他者に合わせて形成された人格」である。

ベスは、元々の家族の中、学校、世間の中で今の家族で演じることになる人格を培って来たのだろう。

そして、推薦図書として挙げている、殊に古典小説では、ex.ドストエフスキーの登場人物になりきるという行為は、むしろ True Self 側の営みに近い面がある。社会適応のために読むのではなく、登場人物を通じて、自分の中に既にある葛藤を発見するから。つまり「人格を装着する」のではなく、「人格の可能性を発掘する」作業である。そして、小説の中で様々な人物と関わっていくのだが、この空間こそ移行空間である。


「一人が好き」の裏にあるもの 令和6年6月7日

「一人が好き」の裏にあるもの
シュナイダー、DSM、ASD、シゾイド、シゾティミーの違いを体感レベルで整理する
 「孤独が好き」「他人にあまり興味がない」「こだわりが強い」──こうした特徴を持つ人は少なくありません。しかし、その背景にある「心の仕組み」は人によってまったく違います。ここを混同してしまうと、自分を深く知ることも、生きづらさの正体を理解することも難しくなります。
 今回は、ネット上でもしばしばごちゃ混ぜに語られる、シュナイダーの人格類型・DSMのパーソナリティ障害・ASD(自閉スペクトラム症)・シゾイド・シゾティミーを、できるだけ噛み砕いて整理してみます。精神医学の知識がなくても、「あ、自分はこの傾向に近いかもしれない」と直感的に理解できることを目指しました。


1.まずは視点を分ける──シュナイダーとDSMは何が違うのか
 精神医学には、大きく二つの人間理解の方法があります。
 古典精神医学の大家であるクルト・シュナイダーは、「この人は何病か」というラベル貼りにはあまり関心がありませんでした。彼が見ていたのは、「その人が生まれ持った人格の偏りによって、どのような人生上の摩擦を繰り返しているのか」です。無感情性人格・自己確信性人格・爆発性人格・ヒステリー性人格などは病名ではなく、その人の人生全体を貫く「人格のスタイル」です。
 一方、現代の精神科で広く使われるDSMの目的は、「どの医師が診ても診断が大きくぶれないようにすること」です。そのため、妄想性・シゾイド・自己愛性・境界性といったパーソナリティ障害をチェックリスト形式で分類します。
 極端に言えば、シュナイダーは「この人はどんな人か」を見ていた。DSMは「この人はどの診断カテゴリーに入るか」を見ている。まずこの違いを押さえておくと、その後の話が理解しやすくなります。


2.シゾイドとシゾティミーは何が違うのか
 どちらも内向的で一人を好み、感情表現が少ないという特徴がありますが、意味は違います。
 シゾイドはDSMの診断概念です。その特徴の中心は、「他者との親密な関係に強い魅力を感じにくい」ことです。一人で過ごすことを好み、雑談への関心が薄く、集団への所属欲求が弱い形で現れます。ただし重要なのは、シゾイドだからといって必ずしも「人が嫌い」なわけではないことです。精神分析的なシゾイド論では、「近づきたい気持ちと、近づくと消耗する感覚が同居している」と考えられることもあります。つまり「本当に人に興味がない人」だけでなく、「人との距離感に悩んだ結果として孤立を選ぶ人」も含まれるのです。
 シゾティミーはクレッチマーが提唱した古い気質概念で、障害ではありません。静かで内向的、感情表現が控えめで思索的といった性格傾向を指します。シゾイドが「診断概念」なのに対し、シゾティミーは「生まれ持ったキャラクターの傾向」です。


3.無感情性人格との違い
 シュナイダーの「無感情性人格」も、一見するとシゾイドに似ています。しかし本質は違います。
 シゾイドの問題の中心は、他者との情緒的接触への関心や動機づけの弱さです。それに対して無感情性人格の特徴は、他者を目的ではなく手段として扱いやすいことにあります。他者の苦しみを理解できないとは限りません。むしろ理解していても、それが行動の制約にならない。そこに特徴があります。シゾイドは「そもそく近づかない」、無感情性人格は「近づくことはできるが、相手の痛みが行動を止めない」と言えるでしょう。


4.ASDとの決定的な違い
 ネット上で最も混同されやすいのがASDです。外から見ると、一人で行動する・雑談が苦手・表情が少ない・集団が苦手など、シゾイドと非常によく似ています。しかし内側の仕組みは大きく異なります。
 ASDの中心は「社会的なルールや文脈を読む認知の特性」です。ASDの人の中には人と関わることを強く望む人もいれば、一人の時間を好む人もいます。共通しているのは「関わりたいかどうか」ではなく、「関係をどう読むか」の部分です。暗黙の了解、場の空気、相手の意図を読み取ることに独特の難しさがあります。
 ASDでは「関係の読み方が分からなくて疲れる」ことがある。シゾイドでは「関係そのものへの欲求が弱い」ことが多い。外から見ると同じ孤立でも、内側では全く違う体験が起きています。


5.自己確信性人格との違い
 シュナイダーの自己確信性人格も、ASDと混同されやすいタイプです。
 ASDでは、予定変更や曖昧さへの苦手さ、認知の切り替えの難しさから頑固に見えることがあります。その背景には、不安や予測不能性への弱さがあります。一方で自己確信性人格では、「自分が正しい」という信念そのものが人格の中心です。そのため反論は、情報としてではなく、自尊心や信念への攻撃として受け取られやすい。ASDは「不安ゆえの硬さ」、自己確信性人格は「確信ゆえの硬さ」と言えます。


6.指摘されたときの反応を見る
 自分の傾向を理解するひとつの手がかりになるのが、「何かを指摘された時、心の中で何が起きるか」を観察することです。
 例えば職場で、「もっと周囲とコミュニケーションを取ってください」と言われたとします。
 ASD傾向の人は、「そうだったんですか。具体的にはどうすればいいですか?」とルールの確認や修正に意識が向きます。シゾイド傾向の人は、「そこまで深く関わる必要がありますか?」と、関係への動機づけそのものが問われます。自己確信性人格では、「その考え方自体が間違っているのでは?」と、自分の正しさを守る方向へ向かいます。
 無感情性人格の場合は少し違います。反論や防衛よりも、相手の困惑や苦痛を認識しながらも、それが自分の行動を変える理由にならない、という構造があります。「なぜそれが問題になるのか」という問いが、感情的な防衛としてではなく、本当に分からない、あるいは分かっても関係ない、という形で出てくることがあります。


最後に
 「一人が好き」という言葉の裏には、実にさまざまな心理的背景があります。私たちはつい、ASD・パーソナリティ障害・シゾイドといったラベルで自分や他人を理解しようとします。しかし本当に大切なのは、診断名そのものではなく、「自分の内側で何が起きているのか」を理解することです。
 人との距離感が分からない人、人と関わると疲れる人、他者への関心そのものが薄い人、自分の信念を守ろうとしている人──外から見える行動は同じでも、内側で動いている心理機構はまったく違います。だからこそ、診断名だけで人を理解したつもりにならず、「その人はなぜそう振る舞うのか」という人格構造に目を向けることが大切なのです。

『普通の人々』と『アメリカン・ビューティ』——喪失と偽りの自己をめぐって 令和8年6月11日

 この二作を並べたとき、表面上の共通点は「機能不全家族」という言葉でくくられがちだ。しかしそれは少し雑な整理だと思う。

 『普通の人々』で精神科医バーガーが向き合っているのは、家族の病理というより、悲嘆の失敗である。母ベスは冷酷な人物として描かれているように見えるが、彼女は冷酷なのではなく、喪失に触れることができない。父カルヴィンは家族を守ろうとするあまり、感情そのものを回避してしまっている。コンラッドは、死んだ兄の代わりに生き続けることを強いられている。病理の核心は家族という制度の歪みよりも、喪失を経験した人間が感情を流せなくなったこと――そこにある。その意味でこの映画は家族療法の物語というよりも、悲嘆の映画と呼ぶべきだろう。

 では『アメリカン・ビューティ』は何の映画か。こちらでは奇妙なことが起きている。誰も、何を失ったのか分からない。しかし登場人物の全員が喪失感を抱えている。レスターは何かを失った感覚のなかで生きているが、その対象が見えない。キャロリンも、ジェーンも、フィッツ大佐も同じだ。精神分析の言葉を借りれば、これは対象喪失のない悲嘆であり、うつ病よりもメランコリーに近い状態だ。悲しむべき対象がある『普通の人々』に対して、『アメリカン・ビューティ』では悲嘆が社会化し、拡散している。

 この二作を貫くもう一つの軸として、ウィニコットのfalse selfという概念が浮かび上がる。ウィニコットのいうfalse selfとは、他者の期待に適応するために形成された人格であり、本来の自己ではない。『普通の人々』ではベスがその典型だ。完璧な母、完璧な妻、完璧な中産階級の女性――しかし彼女自身の内側は空洞に近い。そして二十年後の『アメリカン・ビューティ』では、その空洞が一人の人物に留まらず、画面上の全員に広がっている。会社員を演じるレスター、成功した女性を演じるキャロリン、クールな若者を演じるジェーン、男らしい軍人を演じるフィッツ大佐(ベスの進化形)。誰もが役を生きており、誰も自分自身を生きていない。

 フィッツ大佐の悲劇について、同性愛者であることが原因だという読みは表層的だ。彼の悲劇は、自分自身を受け入れられないことにある。軍人、父親、保守主義者、愛国者――彼が積み上げた人格は、本来の自己を封じ込める牢獄になった。だから彼は崩れ始めたレスターに嫉妬する。レスターは少なくとも、何かが壊れ始めている。フィッツには崩れることすら許されない。

 この映画がフェミニズム批判だという解釈にも注意が必要だ。キャロリンは確かに成功至上主義の犠牲者として描かれている。しかしレスターもまた、筋トレ、スポーツカー、若い女性への欲望を通じて、資本主義の商品幻想に支配されている。映画が批判しているのは女性解放そのものではなく、市場化された自己である。男も女も同じ罠の中にいる、というのがこの映画の冷たい視線だ。

 最後に、二作に共通する到達点について触れておきたい。『普通の人々』においてバーガーの治療が目指したのは、コンラッドが泣けるようになること――本当の感情に触れることだった。『アメリカン・ビューティ』でレスターは死の直前、娘の幼い頃の映像を見て、人生の美しさを思い出す。あの瞬間だけ、彼は何も演じていない。精神医学の言葉を使えば、どちらの作品もauthentic self、真正な自己への回帰を描いている。喪失の形は異なり、false selfの広がり方も異なる。しかし両作品が最終的に向かう場所は同じだ。

令和5年1月1日開設のクリニックです。

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