19. 科学言語・政治言語・マスコミ言語――ファウチ日記から見る「不確実性」の変容 令和8年8月19日
アンソニー・ファウチの日記を読む際、最も興味深いのは「ファウチは正しかったのか、間違っていたのか」という人物評価ではない。むしろ注目すべきは、同じ人物の認識が、私的記録、政策助言、公的説明という異なる場面を通過するとき、どのように姿を変えるかである。
COVID-19禍では「科学に従え(Follow the Science)」という言葉が繰り返された。しかし科学そのものが学校を閉鎖したわけでも、レストランを閉めたわけでも、人々に距離を取るよう命じたわけでもない。そこには必ず、科学的知見を政策へ翻訳し、さらに政策を社会へ伝達する過程が存在する。ファウチの日記は、この翻訳過程を考えるための貴重な資料である。
1. 科学言語――「分からない」ことを保存する言葉
科学言語の本質は、断定しないことにある。「可能性がある」「示唆される」「理論的には考えられる」「現時点では分からない」「さらなるデータが必要である」。これは科学者が責任を回避するための曖昧な表現ではなく、知識の限界を正確に表示するための技術的言語である。
科学的命題とは本来、条件付きのものだ。ある研究結果が得られても、それがどの集団に適用できるのか、効果量はどの程度か、交絡はないか、観察期間は十分か、再現性はあるのか――こうした問いを常に伴う。だから科学において「分からない」ことは欠陥ではない。むしろ、どこまで分かり、どこから分からないかを明示することこそ科学的誠実さの証である。
ところがパンデミック初期のような危機状況では、この科学言語がそのままでは政策にならない。「距離を取れば感染機会が減る可能性があります」と言われれば、行政は「では何メートルですか」と聞き返す。科学者が「正確には分かりません」と答えても、学校や企業は机を何センチ離すか決めなければならない。そこで連続的で確率的だった科学的知識は、「六フィート」という離散的な行政基準へと変換される。
ここで最初の認識論的変容が起こる。「距離が増えるほどリスクが低下する可能性がある」という科学的命題と、「六フィート離れなければならない」という行政命題は、同じものではない。後者には運用可能性、費用、社会的許容性といった判断が加わっているからだ。
2. 政治言語――「分からない」を「決める」に変換する
政治言語の特徴は、科学言語とは逆に、最終的に決定を下さねばならない点にある。政治家は「エビデンスが不十分なので、もう少し研究しましょう」というだけでは危機を統治できない。学校を開けるのか閉めるのか、レストランを営業させるのか閉鎖するのか、外出を制限するのかしないのか――いずれも二者択一を迫られる。
ここでファウチ日記は重要な意味を持つ。2020年3月の記録を見る限り、ファウチは単にウイルス学や感染症学上の知見を提供していただけではない。ニューヨーク市長ビル・デブラシオとのやり取りについて、学校閉鎖を促し、バーやレストランも閉鎖すべきだと伝えたことを記している。さらにシェルター・イン・プレイスについて相談された際には、"I advised DeBlasio to go ahead and do it."と自ら書き残している。
ここで科学者の役割は変化している。「人と人との接触を減らせば感染機会が減少する」という記述的命題から、「したがって学校を閉鎖すべきである」という規範的命題へと踏み出しているからだ。しかしこの「したがって」の内側には、科学だけでは決められない大きな問題が隠れている。学校閉鎖による教育損失をどう評価するか。子どもの発達への影響はどうか。家庭内虐待や孤立、精神的健康への影響はどう見積もるか。飲食店閉鎖による失業や貧困はどう扱うか。感染症専門家は感染症について高度な専門性を持つが、その専門性だけから社会全体の損失関数を決めることはできない。つまりexpertise in infectionは、infectionに関わるあらゆる政策への権限を意味しない。
もちろんファウチが政策を「決定した」わけではない。法的決定権を持つのは市長であり知事であり政府である。しかし日記が示すのは、少なくとも感染症専門家の助言が、純粋な科学的記述から具体的な社会政策へと踏み込んでいた事実である。この境界を明確にしておく必要がある。
3. マスコミ言語――複雑な確率を「正しい/間違い」に圧縮する
さらに第三の段階としてマスコミ言語がある。科学者は"available evidence suggests……"と言う。専門委員会では"evidence supports……"となる。行政機関では"CDCは推奨する"となる。政治家は「我々は科学に従っている」と言う。そしてニュースでは「科学者はこう述べている」という見出しになる。
この過程で失われるのは、available、suggests、uncertain、conditionalといった、科学的知識に付随していた不確実性を示す情報そのものである。複雑な確率分布が「安全か危険か」「有効か無効か」「科学的か反科学的か」という二値情報へと圧縮されていく。いわば認識論的圧縮とでも呼ぶべき現象である。
マスメディアにはもう一つ制約がある。「現在のところ効果量は不明であり、複数の交絡因子が存在し、条件によって結果が異なる可能性があります」という一文より、「専門家、学校閉鎖の必要性を警告」という見出しの方が圧倒的に伝わりやすい。こうして科学的仮説は専門家の助言となり、専門家の助言は政治的決定となり、政治的決定はマスコミによって単純化され、最後には社会的常識として定着する。
4. 最も危険なのは「政策」が「科学」に逆輸入される瞬間
さらに重要なのは、この情報伝達が一方向では終わらないことである。いったん政府がある政策を採用すると、メディアはそれを「科学に基づいた政策」として報じる。医療機関や専門学会も行政指針を参照する。すると多数の専門家が同じ政策を支持しているように見えてくる。その結果、「多くの専門家が支持している」という事実が、「これは科学的コンセンサスである」という逆方向の推論へとすり替わる。
しかし90人の専門家が九十個の独立したデータセットを検討して同じ結論に達した場合と、90人が同じCDC文書を参照しただけの場合とでは、認識論的な意味はまったく異なる。見かけ上のnは90であっても、情報源の独立性という点では、実質的なnは一に近いかもしれない。ここを見誤ると、「専門家のコンセンサス」という言葉の実体を取り違えることになる。
5. 政策への異論が「反科学」に変わる
三つの言語が融合すると、もう一つ重大な変化が起こる。本来「学校閉鎖による感染減少効果はどの程度か」という問いは、ごく普通の科学的な問いである。ところが学校閉鎖という政策そのものが「科学」と同一視されると、政策への疑問はいつのまにか科学への疑問となり、やがて反科学、そしてmisinformationへと格下げされていく。ここでは議論の対象が、命題そのものから発言者という人物へとすり替わっている。「この主張は正しいか」ではなく、「この人物は信頼できる人間か」が問われるようになるのだ。これは科学にとって危険な事態である。科学とは本来、異論によって自己修正していく制度だからである。
6. ファウチ日記が教えるもの
だからファウチ日記を「ファウチが嘘をついた証拠」とだけ読むのは、むしろこの資料の価値を小さくしてしまう。もっと興味深い読み方があるはずだ。同じ出来事について、私的日記ではどう書いたか。政策担当者には何を助言したか。その時、公にはどう語ったか。メディアはどう報じたか。数年後、本人は自分の役割をどう説明したか――これを時系列に並べてみるのである。
すると、私的な認識から科学的助言、政策提言、公的な発信、そして回顧的な説明へと至る、知識の変容過程を観察できる。その際、「誰が悪かったのか」を最初から決めてかからないことが重要だ。むしろ各段階で、何が分かっていたのか、何が分かっていなかったのか、その不確実性は正確に表示されていたのか、どの時点で価値判断が加わったのか、どの時点で暫定的な判断が確定的な事実であるかのように語られ始めたのかを、丁寧に見ていく必要がある。
ここまで来れば、これはもはやファウチ個人を超えた問題になる。COVID期に起きたことの核心は、科学が間違ったことにあるのではない。未知の感染症について科学が誤るのは、むしろ当然のことだからだ。より重大なのは、科学が本来保持していたはずの「われわれはまだ分からない」という情報が、政治言語、行政言語、マスコミ言語へと翻訳されていく途中で、失われてしまった可能性である。
科学言語は確率を語り、政治言語は決定を要求し、マスコミ言語は物語を要求する。この三者が接続されたとき、仮説は助言になり、助言は政策になり、政策はやがて科学的事実として社会へ戻ってくる。そして最後には誰もが、「科学に従っただけだ」と言えるようになる。
ファウチの日記が本当に興味深いのは、この認識論的変容の過程を、リアルタイムの一次記録から逆向きに復元できる可能性を持っている点にあるのだと思う。